甲子園のサヨナラボーク [審判]
審判とは
「サヨナラボークの審判」といえば、その名を聞いたことがある人もいるのではないか。日本リトルリーグの祖として野球殿堂入りを果たした林和男氏を父に持ち、自身もまたアマ野球界で長く審判を務めた林清一氏(60)に、球史に残る“非情のジャッジ”を振り返ってもらった。
林の名が広く世間に知れ渡ったのは1998年夏の甲子園。すでに審判歴12年目、甲子園7度とベテランの林は、2回戦の豊田大谷―宇部商戦での異様な盛り上がりを記憶している。
「第2試合に(現ソフトバンクの)松坂と(現巨人の)杉内の投げ合いが控えていて。確か発表では4万9000人だったと思うけど、実際は5万人以上が観戦に訪れていた」
灼熱の炎天下に球場全体を取り囲む人の壁。2―2で迎えた延長15回裏、無死満塁のピンチにマウンド上の宇部商・藤田修平(当時2年生)は明らかに疲弊していた。そしてその瞬間が訪れる。
藤田はプレートに足をかけたまま、セットに入ろうとした手をふいに下ろしたのだ。
「ボーク!」
球審・林のコールに、満員の甲子園球場は静まり返った。
「当時はまだ電光掲示板にボークの表示もなく、場内放送もないまま整列が始まった。最初はシーンとなっていた球場も、そのあとザワザワと騒がしくなってきて」
確かにボークと判定したものの「映像を見てるわけでもないでしょ。校歌を聞いているうちに“もしもプレートに足がかかっていなければ”“大変なことをしてしまったんじゃ”と気が気じゃなかった」という。
試合後、林はすぐさま記者団に取り囲まれた。
「40人ぐらいいましたかね。360度マイクに囲まれて、まるで犯人扱い(笑い)。記者の人って意地悪だなと思いましたよ」
記者の質問は「なぜボークを取ったんですか」という事実関係の確認に始まり「注意でもよかったのでは」「あんな終わり方でよかったんですか」「ボークを取って、今のお気持ちは」と徐々に林個人を攻撃する内容に変わっていった。
林はその都度「ルールを適用したまでです。どんな状況であろうとルールは厳格に守らねばなりません」と説明したが、追及とも糾弾ともつかない質問の数々に、見かねた三宅幹事審判が「我々はルールの番人です。以上、終わり!」と一喝し打ち切った。
また当日はPL学園監督の中村順司氏がNHKの解説を担当していたが、これが騒動を広げる一因にもなったという。
「NHKのカメラは藤田くんの顔のアップだったものですから、アナウンサーに『今のはなんでボークなんですか』と聞かれて『いやー、わからないですね』と答えたんですよ。それで(判定の)信ぴょう性がなくなっちゃって。“頼むからいい加減なこと言わないでくれ~”と思いましたね」
翌日の新聞各紙は一斉に林の顔と名前を掲載。見出しには「史上初」「なぜボーク?」などの文字が躍り、高野連には抗議の電話が殺到した。
その後も尾を引く騒動に終止符を打ったのは、意外にも昨季まで巨人の監督を務めた原辰徳氏だった。
「NHKの解説でわざわざプレートを用意して『これはボークです』と説明してくれたおかげで、次の日からパタッと抗議の電話はなくなりました。原くんには本当に助けられた。今でも会ったときはその話題で盛り上がりますよ」
こんなエピソードもある。試合後、藤田が投じることなく試合が決したボールを、林のもとに返しにきたが、林はそれを受け取らなかった。
「もぎ取ることはできなかった。『また来年出てきなさい』と」
その後、大学に進学した藤田とは全日本大学野球選手権で再会するはずも、藤田が故障のため欠場。
「そこからなかなか会えなくてね」
2013年、明治大学・阿久悠記念館の来場者3万人記念企画でゲストとして招かれた2人は15年ぶりの再会を果たす。
「そのとき観客から『試合後ボールはどうしたんですか』と質問が飛んだんです。藤田くんは『記憶がなくて、どこにいったかわからない。手元にはないです』と(笑い)。無理もない。そのくらい衝撃的な結末でしたから」
高校野球100年の歴史でもただ一度の幕切れ、サヨナラボーク。消えたウイニングボールは今もどこかで次の100年を見つめているのかもしれない。
(東スポWeb)
☆はやし・せいいち=1955年5月25日生まれ、東京・調布市出身。調布リトルで野球を始め、早実では投手として2年春の関東大会で優勝。3年夏は肩を故障し外野手として都大会準優勝。早大、大昭和製紙(現日本製紙)ではマネジャー兼打撃投手を務める。31歳のとき父の会社である林建設に入社、東京六大学野球で審判を始める。2004年には日本人で唯一、アテネ五輪の審判を務める。12年に審判を引退。現在は経営の傍ら一般財団法人日本リトルシニア中学硬式野球協会理事長としてリトル・シニアの発展に寄与する。前述の調布リトル立ち上げに関わり15年に野球殿堂入りした林和男氏は実父。
「サヨナラボークの審判」といえば、その名を聞いたことがある人もいるのではないか。日本リトルリーグの祖として野球殿堂入りを果たした林和男氏を父に持ち、自身もまたアマ野球界で長く審判を務めた林清一氏(60)に、球史に残る“非情のジャッジ”を振り返ってもらった。
林の名が広く世間に知れ渡ったのは1998年夏の甲子園。すでに審判歴12年目、甲子園7度とベテランの林は、2回戦の豊田大谷―宇部商戦での異様な盛り上がりを記憶している。
「第2試合に(現ソフトバンクの)松坂と(現巨人の)杉内の投げ合いが控えていて。確か発表では4万9000人だったと思うけど、実際は5万人以上が観戦に訪れていた」
灼熱の炎天下に球場全体を取り囲む人の壁。2―2で迎えた延長15回裏、無死満塁のピンチにマウンド上の宇部商・藤田修平(当時2年生)は明らかに疲弊していた。そしてその瞬間が訪れる。
藤田はプレートに足をかけたまま、セットに入ろうとした手をふいに下ろしたのだ。
「ボーク!」
球審・林のコールに、満員の甲子園球場は静まり返った。
「当時はまだ電光掲示板にボークの表示もなく、場内放送もないまま整列が始まった。最初はシーンとなっていた球場も、そのあとザワザワと騒がしくなってきて」
確かにボークと判定したものの「映像を見てるわけでもないでしょ。校歌を聞いているうちに“もしもプレートに足がかかっていなければ”“大変なことをしてしまったんじゃ”と気が気じゃなかった」という。
試合後、林はすぐさま記者団に取り囲まれた。
「40人ぐらいいましたかね。360度マイクに囲まれて、まるで犯人扱い(笑い)。記者の人って意地悪だなと思いましたよ」
記者の質問は「なぜボークを取ったんですか」という事実関係の確認に始まり「注意でもよかったのでは」「あんな終わり方でよかったんですか」「ボークを取って、今のお気持ちは」と徐々に林個人を攻撃する内容に変わっていった。
林はその都度「ルールを適用したまでです。どんな状況であろうとルールは厳格に守らねばなりません」と説明したが、追及とも糾弾ともつかない質問の数々に、見かねた三宅幹事審判が「我々はルールの番人です。以上、終わり!」と一喝し打ち切った。
また当日はPL学園監督の中村順司氏がNHKの解説を担当していたが、これが騒動を広げる一因にもなったという。
「NHKのカメラは藤田くんの顔のアップだったものですから、アナウンサーに『今のはなんでボークなんですか』と聞かれて『いやー、わからないですね』と答えたんですよ。それで(判定の)信ぴょう性がなくなっちゃって。“頼むからいい加減なこと言わないでくれ~”と思いましたね」
翌日の新聞各紙は一斉に林の顔と名前を掲載。見出しには「史上初」「なぜボーク?」などの文字が躍り、高野連には抗議の電話が殺到した。
その後も尾を引く騒動に終止符を打ったのは、意外にも昨季まで巨人の監督を務めた原辰徳氏だった。
「NHKの解説でわざわざプレートを用意して『これはボークです』と説明してくれたおかげで、次の日からパタッと抗議の電話はなくなりました。原くんには本当に助けられた。今でも会ったときはその話題で盛り上がりますよ」
こんなエピソードもある。試合後、藤田が投じることなく試合が決したボールを、林のもとに返しにきたが、林はそれを受け取らなかった。
「もぎ取ることはできなかった。『また来年出てきなさい』と」
その後、大学に進学した藤田とは全日本大学野球選手権で再会するはずも、藤田が故障のため欠場。
「そこからなかなか会えなくてね」
2013年、明治大学・阿久悠記念館の来場者3万人記念企画でゲストとして招かれた2人は15年ぶりの再会を果たす。
「そのとき観客から『試合後ボールはどうしたんですか』と質問が飛んだんです。藤田くんは『記憶がなくて、どこにいったかわからない。手元にはないです』と(笑い)。無理もない。そのくらい衝撃的な結末でしたから」
高校野球100年の歴史でもただ一度の幕切れ、サヨナラボーク。消えたウイニングボールは今もどこかで次の100年を見つめているのかもしれない。
(東スポWeb)
☆はやし・せいいち=1955年5月25日生まれ、東京・調布市出身。調布リトルで野球を始め、早実では投手として2年春の関東大会で優勝。3年夏は肩を故障し外野手として都大会準優勝。早大、大昭和製紙(現日本製紙)ではマネジャー兼打撃投手を務める。31歳のとき父の会社である林建設に入社、東京六大学野球で審判を始める。2004年には日本人で唯一、アテネ五輪の審判を務める。12年に審判を引退。現在は経営の傍ら一般財団法人日本リトルシニア中学硬式野球協会理事長としてリトル・シニアの発展に寄与する。前述の調布リトル立ち上げに関わり15年に野球殿堂入りした林和男氏は実父。
2016-05-02 19:28
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